宝福寺のよもやま話

宝福寺 林泉寺の五代目の山秀専海大和尚様が開かれたお寺です。

 林泉寺から宝福寺を見たら、宝福寺は末寺(まつじ)、宝福寺から林泉寺を見たら、林泉寺は本寺(ほんじ)と言います。一般の家で言うところの本家と、新家又は分家と言った関係です。

その宝福寺は、ご本尊さまは薬師瑠璃光如来、通称 『お薬師さん』です。

昭和の時代に建て替えられました。以前はお庫裡にご本尊さまを

初め多くの仏さまを安置していました。

江戸時代は威風堂々とした七間四面の本堂でありました。ご本尊さまがお薬師さまという事もあり、薬を調合しご祈祷をあげて、欲しい方にお分けしていました。今では薬事法違反ですね。その薬袋の版木がいくつか残っています。
信者さんも大勢あったようで、本堂から東に延びる道は宝福寺の「宝」を取って『宝通り(たからどおり)』と呼ばれていました。10年ほど前までは『宝通り』にちなんで、『宝屋さん』というお店もありました。
 それ以外に賭場、いわゆる公営ギャンブル場で、時代劇に出てくる「はんかちょうか」って言うサイコロを使った博奕で場所貸しをしていました。いつの時代もそうですが、地下に潜って違法行為をしないようにガス抜きの意味合いもあり、寺社の境内で公営ギャンブル場をしていたようです。また、その場所貸しの代金(ショバ代)の事を『寺銭(テラセン)』と言ってました。

 そのような宝福寺でありましたので、一時は大変勢いが良く金銭的に余裕があったようで、矢作川の河口付近を埋め立てて新田を造成する工事費用を出資しています。その新田の名前は「ちゃらんこ新田」と言い、その名前の通り埋め立てて新田ができる前に台風か何かの災害で堤防が決壊し、文字通り「ちゃら~ん」と海の藻屑となってしまったようです。現在の西尾市小栗新田がその後に出来上がった新田です。

昔の絵図面によりますと当時、本堂が建っていた場所は、現在の名鉄三河線の碧南駅より西に進んだところの道路の真ん中に建っていました。

当時の証文や境内図もありますが、それはまた後程アップしてみたいと思います。

 ところが、そのような隆盛を極めていた宝福寺でありますが、明治時代になりたまたま住職が東京の方に一時単身赴任していた頃、留守でもあるし役場から申し出があり貸していたところ、火事になりました。ご本尊さまやおもな仏さまは救出されましたが、それ以外の仏さまや重要な書類の全てが本堂と共に焼失致しました。当時のお役人の口約束では本堂を再建するという事でありましたので、火難にみまわれた仏さまは一時的に篤志家の方に守られたりしました。しかし約束は反故にされ、また、信者さんのお寺であり、檀信徒が無いお寺でありましたので、寄付をお願いする方もなく再建の道のりが遠く、仕方なくお庫裡に仮安置するという事になりました。昭和60年頃に林泉寺18世によりお庫裡の痛みが激しくて、取り壊し、仮の本堂という事で現在に至っています。

レンガ塀

昭和21年 17世曹参代 20間(36m)

施主 石橋清吉

作人 刈谷町 杉浦敏朗となっています。

新緑とのコントラストがすばらしい!

 

れんが塀

レンガ塀