林泉寺沿革

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宗派 御本山

曹洞宗  永平寺(福井県)・総持寺(横浜市)


開創

1457年(長禄元年) それ以前は天台宗であったが詳細は不明であるが、遅くとも1300年代に草創されたと思われる。


開基

儀雲和尚

天台宗時代の最後の林泉寺の住職であったが、後の住職を曹洞宗の傳海良亨和尚に譲る。

由緒

現在の本堂は1650年頃に建てられ、その後、度々の修理改造がされて、九間八間の本堂となっている。御本尊は聖観世音菩薩座像、脇侍には地蔵菩薩・毘沙門天、その外本堂には西国三十三観音菩薩尊像をはじめ、たくさんの佛・菩薩がお祀りしてある。別堂には弘法大師・大聖歓喜天(聖天さん)がお祀りしてある。
末寺は7ヶ寺あったが、現在は2ヶ寺である。
6世と12世が能登門前町にあった大本山総持寺(江戸時代までは輪番制で住職が交代し、明治40年に能登半島から横浜鶴見区に移転し現在は祖院となる)へ出仕した。

寺が出来た当時は、衣浦湾の波浪穏やかな白砂青松、風光明媚な幽艶の地に建立され、山号は華慶山・寺号は林泉寺という優雅な名が付けられた。松並木の参道で、樹齢三百年とうい大きな老松も数本あり、静寂なたたずまいで、裏の座敷から一望のもとに衣浦湾を眺めることが出来たというが、伊勢湾台風によって老松はすっかり枯れ、海は工業地帯となって環境は一変してしまった。
寛政3年(1791年))に作製された古地図によると、山林雑地を含めて1843坪、場内地1574坪とある(昔とは1坪の面積が現在とは異なるため)が、現在の測量表記方法では約1460坪境内地がある。徳川家康との縁により徳川幕府より石高34石3斗を賜った。

富岡鉄斎の来訪

明治、大正、昭和の三代にわたって大芸術として知られた富岡鉄斎は各地を旅行し、気のむくままに諸家に滞在して名作を残している。明治22年(鉄斎54歳)と28年石川三碧宅(九重みりん)に逗留した。石川家が隣家であったので、閑静な林泉寺の書院や茶室を画室に健筆をふるっていたとのことである。衣ヶ浦を一望に見渡せるこの部屋は、現在はない。

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